こんばんは。
先週なんですけど、
桂川サイクリングロードをチャブログしてきました。
サイクリングロード自体は
渡月橋からなんですが、
maruは、
久世橋あたりから入って下っていくことにしました。
さて。
どなたかに『久世橋付近には野生化した
ヌートリアが生息してる』て聞いたコトがあったので、
ジィ~~~~~~~~~~。
...て、目を凝らしてみましたが、見つけられませんでした。
名神高速を越えた辺りで、サイクリングロードは桂川を離れますが、
今回はとりあえず桂川を南下し続けました。
そして、河川敷の運動公園に到着。
京都市の運営する、
桂川緑地久我橋東詰公園です。
実は『
ココに激安フットサルコートがある!』と聞いていたので、
その偵察を兼ねたチャブログだったのですが...
これじゃタダの地面やん...(-_-;)
鴨川沿いに移動して、桂川サイクリングロードに戻ります。
この辺りは
鳥羽と言い、幕末期の
戊辰戦争開戦の地なのです。
(鴨川・小枝橋袂の石碑)
慶応4年(1868年)1月3日、この付近で
幕府軍と
薩摩軍が対峙。
強行突破を図る幕府軍に対して、薩摩軍が大砲(アームストロング砲)を放ったことから全面衝突。
以降、1年以上にわたる
内戦の火蓋が切って落とされたのです。
鴨川と西高瀬川の合流地点付近では、
大きな石を見つけました。
なんじゃこりゃ?
すぐ近くに説明版がありました、要約するとこんな感じです。
『鴨川改修工事の時、
川底から発見された巨石たち。
詳細は不明だが、江戸時代の
二条城修理の為に運ばれてきた石が、
何らかの理由でこの地に
沈んだままになっていたのではないか。』
なるほど。ホンマやったら二条城で石垣にでもなるハズやったのに、
舟から落っこちたかなんかで、ココにいることになったんですね。
人生(いや、石生?)イロイロですね。
その後、鴨川は桂川と合流。
サイクリングロードは、再び桂川沿いを進みます。
今度は、こんな石碑を発見しました。
タイトル(!?)に『
魚市場遺跡』て書いてあるのはわかるのですが、
どうも本文が読みにくくて、この時は読むことを断念しました。
帰ってから調べると、京都市のサイトに説明が載ってました。
『江戸時代、
鴨川と桂川の合流地点にあった
草津の湊(みなと)では、瀬戸内海でとれた鮮魚などが陸揚げされていました。魚は
鳥羽街道を通って京へと運ばれたといわれています。
羽束師橋から南へ約200メートルの場所には
魚市場の跡をしめす石碑がたっています。』
なるほどね。
多くの人口を抱え消費都市である京都には、
物流物販拠点が必要ですもんね。
近代まで大量運輸の主流は
水運。当時は、さぞ賑わったことでしょう。
しばらく走って東側を見ると、100mほど先にこんもりと木の茂る小山が見えました。
『
古墳か?でも、こんなトコに古墳ないしなぁ。』
そう思いながら、ケータイのGPS機能で現在地付近の地図を表示。
『
淀城址公園』
なるほど。そういえば
淀城も幕末の『有名地点』なんですよね。
先程見た小枝橋での戊辰戦争開戦から2日後、
慶応4年(1868年)1月5日のコト。
開戦以来、鳥羽・伏見方面で敗戦を繰り返した
幕府軍は、
幕府老中・稲葉正邦が藩主である淀城へ入城し態勢を立て直そうとします。
しかしその時、淀城を守っていた
家老・田辺権太夫は
幕府軍の入城を拒否します。
味方であるはずの淀城に入れなかった幕府軍は辛うじて
橋本宿まで撤退しましたが、
これに
大いに戦意を喪失し、その後の戦局を左右したと言う『事件』のあった場所なのです。
そっか、今日のルートは
戊辰戦争初期の地を進んでるんやなぁ。
そう思いながら走り続けて、
桂川・木津川・宇治川の3川合流地点までたどり着きました。
今日はココまで。折り返して、元来た道を走りました。
スタート時刻が遅めやったのと、雨降りを気にしながらやったので、
結局あまり距離は走らず往復で20kmちょっとでした。
でも、
身近なところで色んな歴史に接した気分でした。
次回は、続きの
木津川サイクリングロードを走りたいな!
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京都市網間区 島海通月兎小路下る東入る
仮想膳屋『京都・月海小路』
店主 maru敬白
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